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 会津若松

会津若松は、戊辰戦争の中でも会津戦争の舞台として沢山の逸話を残した歴史の街です。
新選組の親とも言うべき会津藩主松平容保が、女子供まで動員し、一丸となって戦いつづけたいにしえの城下町です。
ここでも、レンタサイクルで各所をまわったのですが、ほとんどが平地なので難なく廻ることができました。
また、駅周辺の古い町並みを探索してみると、結構風情のある店が並んでいてオススメです。
少し頑張って、東山温泉でのんびり寛ぐのも良いのでは。

史跡の位置は地図上の印で表しています。

天寧寺〜近藤勇の墓
慶応4年4月25日、近藤勇が板橋で処刑された後、会津を訪れた土方歳三は、松平容保の命により天寧寺に墓を建てました。墓石は寺裏手の愛宕山を登ったところにひっそりと建っています。
戒名は「貫天院殿純忠誠義大居士」。会津藩の近藤勇に対する気持ちが伝わってくるようで嬉しいです。
最近、土方歳三の慰霊碑が並んで建てられました。
因みに、結構急な山道で岩がゴロゴロしていますので、気を付けてください。
会津若松駅〜バス奴郎ヶ前〜徒歩15分 地図


白虎隊記念館
飯盛山のふもとに位置する記念館は、白虎隊のみでなく、戊辰戦争に関わりのある多くの資料や遺品が公開されています。その数なんと一万二千点。
新選組関連では、近藤勇の鉢金と土方歳三の鎖帷子、そして島田魁の新選組肩章などが展示されています。また、沖田総司と斎藤一の肖像画も展示されています。
4月〜11月 午前8:00〜午後5:00
 12月〜3月 午前8:30〜午後4:30
会津若松駅〜バス飯盛山〜徒歩1分 地図


阿弥陀寺
新選組三番隊組長である斎藤一の墓があります。母成峠参戦後、土方歳三と袂を分かち、会津に留まりますが、如来堂の戦いで生き延びました。維新後は藤田五郎と名乗り、警視庁に勤め、71歳の天寿を全うしました。また、境内には明治2年まで城下周辺に放置されたままになっていた1281人もの亡骸を埋葬した広大な合同墓地が存在します。
七日町駅〜徒歩1分 地図



清水屋跡
宇都宮戦で足を負傷した土方歳三が、静養のため泊まった旅籠と伝わります。残念ながら建物は現存していませんが、解説板が立っています。会津若松は、こうした史跡の解説版が徹底していて、素晴らしいですね。
会津若松駅〜バス白木屋前〜徒歩1分 地図
 

会津武家屋敷
七千坪の敷地に、会津藩家老西頼母邸を始め歴史的建造物や資料館などが軒を列ねています。
敷地内には、坂本竜馬の暗殺に関与したとされる佐々木只三郎の墓所もあります。
中でも敷地内にある会津歴史資料館は、随時特別企画展を開催しており、今回は幸運にも、「新選組・会津展」を見ることができました。小島資料館などから取り寄せた新選組の貴重な資料や遺品の数々を、こんな所で拝めるとは思いもよりませんでしたね(笑)。
展示会ごとに発行されるパンフレットは、読みごたえがあります。また、出口付近の茶屋にある「あげまんじゅう*」はおすすめ。温泉まんじゅうのてんぷらみたいなんですが、これがとても美味しい!ぜひ、お試しあれ!(私は武家屋敷に立ち寄って、あげまんじゅうを頬張るのが楽しみなのです…笑)
4月〜11月 午前8:30〜午後5:00
 12月〜3月 午前9:00〜午後4:30
会津若松駅〜バス会津武家屋敷前〜徒歩1分 地図
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会津藩主松平家廟所
会津藩主松平家2代正経公から9代容保公までの藩主の墓が並んでいます。亀型の台石に5mを超す石柱が建ち並ぶ光景は、長年の歴史の重みを感じさせられます。
会津若松駅〜バス奴郎ヶ前〜徒歩15分 地図

*亀趺坐(きふざ)
*亀趺坐(きふざ)…亀型の台石で、一般には亀石などといわれています。これは竜の子を表し、死者の霊を守る架空の動物とされています。


鶴ヶ城
鶴ヶ城は会津戦争の折、会津に攻め込んできた新政府軍によって、破滅的な大打撃を受けました。古写真には、小田山から砲撃された無数の爪痕が見られ、当時の戦争の悲壮さを物語っています。現在の城は昭和40年に復元されたものですが、内部に展示されている「会姓寺橋布陣図」(”誠”の隊旗が描かれています)は一見の価値あり。
会津若松駅〜バス鶴ヶ城北口〜徒歩1分 地図


鶴ヶ城−鐘楼跡
籠城戦が展開される中、鐘楼に砲火が集中し時守が銃弾に倒れてもなお、正確に時を刻んでいたと伝わります。

会津若松駅〜バス鶴ヶ城北口〜徒歩1分(鶴ヶ城内)

如来堂
土方歳三と袂を分かち会津に残った斉藤一は、新選組隊士を率いて如来堂に立て籠もります。
9月5日、新政府軍による攻撃によって如来堂を含む高久周辺は孤立。遂に壊滅状態となります。
*当時、如来堂の隊士は全滅かと思われていましたが、後年残留した隊士のうち斉藤一以下7名は生存していたことが判明しています。
<会津に残留した隊士>
斉藤一 久米部正親 池田七三郎 吉田俊太郎 志村武蔵 清水卯吉 河合鉄五郎
新井破魔男 小幡三郎 高橋文二郎 高橋渡 (+…生存不明)
 
 高久から鶴ヵ城を臨む。周りは田んぼばかり…(笑)

中野竹子殉節碑
1868年8月25日、中野竹子・優子の姉妹を中心とした娘子隊は衝鋒隊に従軍し、この地で長州・大垣藩の銃弾に倒れました。竹子の薙刀には
「武士の猛き心にくらぶれば 数には入らぬ我が身ながらも」
という辞世の句をしたためた短冊が結びつけられていたといいます。


涙橋(柳橋)
坂下に近い柳橋では新政府軍と、それを突破して城へ入ろうとする娘子隊の戦いが始まりました。
この橋は川上に刑場があったことから涙橋とも呼ばれています。


諏方神社
砲兵隊一番分隊は諏方神社に布陣し土佐藩兵を撃退しますが、退路を確保したに過ぎず、敵の侵入を防ぐため、建物を焼き敗走したといいます。
神社の鳥居には、当時の弾痕1*が残されています。
因みに、鳥居の脇にある灯籠には、会津藩主松平家墓所で見掛ける亀趺坐2*が見られます。これは、会津が幕府より蝦夷樺太の守備命ぜられた折に贈られたものと伝わります。
また、入り口には馬を繋いだとされる石や水飲み場などが当時のまま残っています3*

1*弾痕 2*亀趺坐(きふざ)
 <おまけ>
3*
2*亀趺坐(きふざ)…亀型の台石で、一般には亀石などといわれています。これは竜の子を表し、死者の霊を守る架空の動物とされています。

住吉神社
会津戦争で会津藩が唯一勝利を収めた場所。佐川官兵衛は住吉神社と秀長寺に兵を潜ませ一気に攻撃を仕掛け敵を敗走させたといいます。敷地内には、「会津藩戦勝地跡」という標識が建てられています。
 

秀長寺
佐川官兵衛は住吉神社と秀長寺に兵を潜ませ一気に攻撃を仕掛け敵を敗走させたといいます。


長岡藩殉節の碑
会津藩と共に戦った山本帯刀はじめ長岡藩士の墓碑が建ちます。

  

日新館天文台跡
會津藩校日新館は、当時全国でもまれにみる設備の整った学校で、文武とも専門的な教育を行っていました。
戊辰戦争では臨時の病院として使用され戦火によって焼失しましたが、唯一この天文台だけが焼け残りました。


西郷邸跡
戊辰戦争時の家老西郷頼母(さいごうたのも)屋敷跡。ここで、頼母の母、妻、妹、娘9人と縁者らの家族、計21人がここで自決しました。建物は会津武家屋敷で再建されています。
会津戦争で会津藩の苦境を知った西郷一家は、足手まといになってはと幼児を含む一族21人が壮烈な自決をしました。屋敷に踏み込んだ西軍の土佐藩士中島信行らが、急所を外し苦しむ頼母の長女細布子(16歳)を発見。「敵か味方か」と尋ねるので「味方」と答えると安心して介錯を頼んだと伝わります。
*頼母一族自決のシーンは、「会津武家屋敷」内にて人形によって再現されています。
善龍寺には、頼母一族の墓所、なよたけの碑が建ちます。


天神橋
天神橋は鶴ヶ城の南方に位置する橋です。
城内の守備兵はこの天神橋口を守り、兵站を確保していました。


善龍寺−なよたけの碑/西郷頼母の墓/二十一人の墓
善龍寺には、家老西郷頼母、その一族21人の墓、妻千重子の辞世を刻 んだ「なよたけの碑」があります。
会津戦争で会津藩の苦境を知った西郷一家は、足手まといになってはと幼児を含む一族21人が壮烈な自決をしました。屋敷に踏み込んだ西軍の土佐藩士中島信行らが、急所を外し苦しむ頼母の長女細布子(16歳)を発見。「敵か味方か」と尋ねるので「味方」と答えると安心して介錯を頼んだと伝わります。
*頼母一族自決のシーンは、「会津武家屋敷」内にて人形によって再現されています。
<西郷千重子辞世>
「なよ竹の風にまかする身ながらも たわまぬふしはありとこそきけ」
西郷一族をはじめとする婦女子233人の自決や白虎隊の自刃は、初代藩主保科正之が制定した『家訓』に代表される会津藩の武士道精神に依るものと言われています。

奈与竹乃(なよたけの)碑…昭和3年に建設されました。裏面には殉難婦女233名の氏名が刻まれています。

西郷頼母夫妻らの墓(説明板)


天寧寺町土塁
鶴ヶ城の外堀跡。蒲生氏郷時代には天寧寺町口が正門 だったといいます。
戊辰戦争では、新政府軍の城下進軍の報を受け、第一砲兵隊、 第二砲兵隊、青龍寄合組が天寧寺町を抜け三ノ丸不明門・埋門から入城を果たします。国指定史跡に指定。


甲賀町口門跡
蒲生氏郷は城下町に16の郭門(かくもん)を設け、武士の住む郭内と町人の住む郭外とに分けました。甲賀町口の石垣はただ1つ残る郭門の一部です。


蚕養神社(蚕養口)
1868年8月23日、戸ノ口や強清水と猪苗代を突破してくる新政府軍に対し、松平容保と松平定敬は会津の北の入り口を固めんと滝沢本陣へ向かいます。しかし、敵の侵攻が早く蚕養口付近で松平容保は帰城。松平定敬は藩兵とともに米沢へ向かいます。
因みに、この後土方歳三も援軍を求め庄内に走り途中出会った大鳥圭介に新選組の取りまとめを依頼しています。

戸ノ口堰洞穴
戸ノ口原に向かった白虎二番士中組は、反対に追撃され敗走を余儀なくされます。城の安否を確かめんと、この戸ノ口堰洞穴を潜り飯盛山に向かいますが、少年達の目に映ったものは炎に包まれた城下の町でした。落城したと思い込んだ白虎隊士は城と運命を共にせんと、ついに自刃を遂げてしまいます。


旧滝沢本陣
1868年8月23日、戸ノ口や強清水と猪苗代を突破してくる新政府軍に対し、松平容保と松平定敬は会津の北の入り口を固めんと滝沢本陣へ向かいます。

1*歴代藩主ご使用の湯殿 2*藩主ご使用の雪隠
↑あまり関係ありませんが、個人的にツボにはまってしまいましたのでご紹介しました


妙国寺
戊辰戦争後、会津藩は朝敵という立場から白虎隊士はもとより城内の遺骸に触れることすら許可されていませんでした。 滝沢村の吉田伊惣治はそうした白虎隊士を哀れみ、西軍の目を盗んで密かに妙国寺に仮埋葬しました。後に白虎隊士の亡骸は飯盛山に埋葬されます。
また、妙国寺は会津藩主松平容保が降伏後、容保父子が1ヵ月間入寺謹慎した寺でもあります。.

白虎隊士自刃假埋葬地碑

戊辰戦没 西軍戦没者墓地
会津戦争で亡くなった西軍の集団墓地です。明治元年4月以来、県の招魂社が管理していましたが、第2次世界大戦後、官修墓地制度が無くなり荒廃が進んでいたといいます。
現在は史跡保存会の皆さんが管理され、清閑な佇まいとなっています。
「至誠奉公の勇士静かに眠る」と刻まれた碑の背後には計150名が葬られています。
戊辰戦争、特に会津戦争では、敵味方に多くの犠牲者が出ました。
会津に訪れた際にでも、手を合わせて戴ければ幸いです。

福良本陣跡
宇都宮で負傷し会津で療養していた土方歳三が、初めてその姿を現したといわれる本陣跡です。
当時、土方歳三の出現に白虎隊士はじめ旧幕府軍の士気も高まったといいます。
また、ここは野戦病院があり、島田魁も治療を受けていました。
現在は民家の片隅に石碑が建つのみです。
(この石碑を訪れる際には近隣の方々に声を掛けたほうが良いかと思われます)

福良御用場跡
新選組の宿舎としてしようされていたと伝わります。
土方歳三は福良から町守屋に移り郡山への進軍を試みますが、既に棚倉などの諸藩は降伏しており、急遽二本松援護のため猪苗代城下・母成峠を目指すことになります。
この御用場は2003年10月頃まで当時の遺構を保っていましたが、現在では取り壊され現存していません。

当サイトでは、個人宅、並びに墓所の写真掲載は控えさせていただいております。
 なるべく説明板などで代用できるところは掲載しておりますが、どうかご了承下さい。

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