■鞆の浦(広島県福山市) …いろは丸事件談判跡/太田家住宅

福山駅裏にそびえる福山城

こちらでは、福山藩の港として栄えた町”鞆の浦”をご紹介します。
鞆の浦は、海援隊いろは丸が(紀州家の船明丸と衝突して)沈没したとして、近年海底調査が行われた港です。
鞆にある「
いろは丸展示館」では、海底に沈むいろは丸の様子や坂本竜馬に関する資料などが公開されています。
また、”鞆の浦”には幕末に因んだ史跡も残っています。
太田家住宅朝宗邸〜鞆七卿落遺跡は、「
八月十八日の政変」で都を追われた公家達(七卿落ち)が宿泊したと伝わる史跡で、近年修復工事も終わり当時の雰囲気を残す貴重な史跡となっています。
因みに福山藩は、ペリー来航の際交渉を行った老中・阿部正弘が藩主を勤めたことでも有名です。来航時には、身分を問わず広く意見を聞き、諸藩の軍艦建造の禁を解いてオランダから蒸気船を購入したともいわれています。後に阿部正弘が創設した広島県立福山誠之館高等学校には、来航の際に贈られたとされる六分儀、顕微鏡などが保管されています。
福山市ホームページ(広島県福山市)

いろは丸展示館
宇治島(広島県福山市走島町)で海援隊いろは丸が(紀州家の船明丸と衝突して)沈没したとして、近年海底調査が行われました。鞆にある「いろは丸展示館」では、海底に沈むいろは丸の様子や引き上げられた遺品、坂本竜馬に関する資料などが公開されています。
福山駅〜バス鞆の浦バスセンター〜徒歩5分

いろは丸事件談判跡
1867(慶応3年)年4月19日、坂本竜馬が指揮する海援隊は大洲藩船「いろは丸」に武器・商品を乗せ長崎を出航しましたが、23日鞆港への回航途中、備後灘の六島沖の海上で紀州藩の「明光丸」と衝突、機関部に損傷を受け宇治島(広島県福山市走島町)の南方4km、水深27mの海底に沈没したと伝わります。
この事件後、坂本竜馬は「明光丸」の船長・高柳楠之助と、鞆港に近い真言宗・福禅寺の客殿対潮楼で6日間に渡り損害賠償交渉を行います。その間鞆での交渉中に宿泊していたのは、鞆港に程近い「升屋」という魚屋で、当時宿泊していたと伝わる天井裏の隠し部屋がいろは丸展示館に再現されています。
福山駅〜バス鞆の浦バスセンター〜徒歩5分

□こぼれ話賠償金の問題で深い溝を残した紀州藩と土佐藩は、後に天満屋事件へと発展します。龍馬暗殺事件後、残された海援隊士は紀州藩の用人三浦休太郎が新選組をそそのかせて竜馬を討たせたものと考え、旅籠・天満屋に宿泊していた紀州藩士三浦休太郎を襲撃します。三浦の警護に就いていた齋藤一・大石鍬次郎ら7名は、よりによって当の三浦とどんちゃん騒ぎの真っ最中。乱闘中に「三浦を討ち取った」という声が響いたため、襲撃犯は立ち去り、三浦は軽傷のみで命は助かったそうですが、新選組側は2名が死亡、齋藤も負傷するという犠牲を払いました。。

太田家住宅・太田家住宅朝宗邸〜鞆七卿落遺跡
八月十八日の政変」で都を追われた公家達(七卿落ち)が宿泊したと伝わる史跡で、近年修復工事が終わり、当時の雰囲気を残す貴重な史跡となっています。
当時、七卿のうちの一人
三条実美が歌を残しています。
三条実美は、自分がこの地に流れ来て、世に聞く保命酒を舐めるに至る経緯を「めずらしの世や」と歌っています。
世に鳴らす 鞆の港の 竹の葉を かくて嘗なむるも めずらしの世や
入り口の脇には100円を入れると史跡の説明を聞くことのできる自動案内板が立っています。
福山駅〜バス鞆の浦バスセンター〜徒歩5分


保命酒
保命酒とは、もち米を主原料とする甘口の原酒に、高麗人参・甘草など16種の漢方の薬味を漬けた養命酒のような健康酒で、幕末ペリー提督一行の宴席にこの保命酒が振舞われたそうです。
岡本亀太郎本店
入江豊三郎本店
福山駅〜バス鞆の浦バスセンター〜徒歩3分

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