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 鳥羽/伏見
鳥羽伏見は、明治維新に向かい、日本中の藩を巻き込むことになった日本最大の戦・戊辰戦争発端の地です。
現在も伏見には西軍東軍問わず、多くの供養碑が残っています。
今回は、偶然にも戊辰戦争が勃発した1月の探索となりました。寒風吹きすさぶ中、どんなに過酷な戦争であったかを痛感させられました(笑)。最盛期の新選組とは異なる世界をご覧下さい。
因みに、心なしか風景がもの悲しく見えるのは、偶然ではなく大雨という悪天候だったからです…(泣)。
ここでは敢えて京都に分類せず、「鳥羽伏見の戦い」ということでページを設けました。
総べてご紹介するには余りにも多いので、沿線上付近、東軍にゆかりのある史跡を中心にご紹介します。

史跡の位置は地図上の印で表しています。

橋本から天王山を臨む

伏見奉行所跡
慶応4年1月3日、鳥羽・伏見の戦いで新選組は伏見奉行所に布陣し戦いますが、御香宮神社に布陣していた薩摩軍の砲撃を受け炎上してしまいます。
当時、永倉新八がこの奉行所の塀を登ろうとして往生しているのを、島田魁が塀の上から銃を差し出し軽々と引き上げたというエピソードが残っています。現在は、石碑が残るのみとなっています。
近鉄京都線桃山御綾前駅〜徒歩7分 地図


御香宮神社
薩摩藩の陣所で、ここから新選組が布陣する伏見奉行所に大砲を撃ち込んそうです。御香宮神社と伏見奉行所跡は目と鼻の先。こんなに近くから大砲が降ってきたらたまったもんじゃありません(笑)。
「戊辰東軍戦死者霊名簿」を所蔵。境内には「明治維新伏見の戦跡」
*1の碑が立ちます。
近鉄京都線桃山御綾前駅〜徒歩4分 地図

*1

東本願寺伏見別院
会津藩の陣所。現在は伏見幼稚園となっています。門前右に「伏見御坊」の碑が立ちます。
京阪伏見桃山駅〜徒歩10分 地図

*この近くには坂本竜馬が潜伏していたという寺田屋があります。見学も宿泊もできるそうですので、興味のある方は是非足を運んで下さい。地図


文相寺
正門右手の墓地入り口に「戊辰役東軍戦死者埋骨地」の慰霊碑が建っています。
京阪淀駅〜徒歩7分 地図


長円寺
正門向かって左側に榎本武揚書の「戊辰役東軍戦死者之碑」*1が建ちます。
また、えんま堂左側には「戊辰役東軍戦死者埋骨地」*2の慰霊碑が建っています。
京阪淀駅〜徒歩15分 地図
*1 *2

東運寺
本堂裏手の墓地中央に位置する切り株の前に、「戊辰役東軍戦死者埋骨地」の慰霊碑が建っています。
*長円寺と東運寺は隣接しています。
京阪淀駅〜徒歩15分 地図
 

淀城跡
現在は淀城址公園として堀割と石垣のみが残留のみです。公園内には「淀城址」*1の石碑と、「田辺治之助君記念碑*2が建てられています。
当時、淀城は妙教寺の場所にあり、伏見から退いてきた旧幕府軍と追い討ちを掛ける新政府軍との間で大変な激戦となりました。1月4日には新選組や会津藩も淀城下まで敗走したといいます。淀城周辺に集中する「戊辰役東軍戦死者埋骨地」の碑は、いかに淀城周辺の戦況が激しかったかを物語っています。
劣勢の旧幕府軍は淀城で形勢の巻き返しを図りますが、淀藩稲葉家は東寺に「錦の御旗」が立てられたことで旧幕府軍の入城を拒否します。
京阪淀駅〜徒歩0分 地図

*1 *2

戊辰戦場址の碑
もともと愛宕茶屋付近の南堤防上にあったと伝わります。現在は、納所会館の階段を昇って右手に「戊辰戦場址」の碑が建ちます。
京阪淀駅〜徒歩15分 地図


妙教寺
境内に「史跡淀古城戊辰役砲弾貫通跡」*1の石碑と、榎本武揚書の「戊辰役東軍戦死者之碑」*2が建てられています。本堂*3には「東軍戦死者の位碑」が置かれ、砲弾が壁を突き破り柱を貫通した跡や当時の砲弾や小銃弾も残されているそうです。
また、淀城内への旧幕府兵乱入の責めを負い自刃した田辺治之助、田辺家の淀藩城代家老・田辺権太夫ほか田辺家一族の墓所も残っています。
京阪淀駅〜徒歩20分 地図
 *3
*1 *2

愛宕茶屋
桂川堤防沿いにあった愛宕茶屋は、当時戊辰戦争の激戦地でした。
現在は桂川堤防下にある銀杏の木の下に「戊辰役東軍戦死者埋骨地」の慰霊碑が建っています。
京阪淀駅〜徒歩25分 地図


八番楳木(千両松)
京都競馬場駐車場に架かる架橋の下に「戊辰役東軍戦死者埋骨地」の慰霊碑が建っています。
当時、千両松は戊辰戦争の激戦地で、5日10時頃からの激戦では新選組の井上源三郎はじめ十数名の戦死者が出ました。井上源三郎の首は甥の井上泰助によって寺の門前の田圃に埋められたと伝わります。
京阪淀駅〜徒歩20分 地図
 
 

橋本砲台跡地
千両松から敗走を余儀なくされた旧幕府軍は、橋本に砲台を構え新政府軍を迎え撃とうと試みました。
しかし、対岸の山崎関門を守っていた津藩の裏切りによって大きな打撃を受けます。橋本から南西に位置する楠葉砲台は山崎から降ってくる砲弾で混乱に陥り崩壊しました。
この地で新選組は4人の戦死者を出し、新選組監察・山崎烝は敵の銃弾を受け新選組と共に大阪に敗走しました。
現在、「戊辰役橋本砲台場跡」の石碑は天王山久修園院(釈迦堂)へ続く道脇*2から南西の田畑*1に移動されました。天王山久修園院のお話によると当時は現在より40cmほど高く土塁が盛ってあったそうです。
京阪橋本駅〜徒歩15分 地図
 *1*2

天王山久修園院
千両松から橋本に敗走した旧幕府軍は、天王山久修園院を橋本本営とします。院内には弾薬庫などもあったと言います。
京阪橋本駅〜徒歩12分 地図

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